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2006年2月26日 (日)

南方上座の源流を探る(10)

この「雪山部」という部派は、後の書物では「本上座部」とか「根本上座部」と呼ばれるようになる。その意味ではこのトピックのお題であった、本上座部の「本」とは?ということの答えはココに求められる、と言ってもいいのかもしれない。しかし・・・


[つづく・・・かな?]

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2006年2月25日 (土)

南方上座の源流を探る(9)

★スリランカ上座部の源流は?
スリランカに本格的に仏教を導入したのがマヒンダという、西域地方の僧であったことは上に述べた。マヒンダはウッジャイニーの丘の上から天空に上り、スリランカの地に空から降り立ったということになっているが、実際には、マヒー川を下って海路スリランカに赴いた、と言うことらしい。

マヒー川流域には当時「雪山部」(ヒマヴァット)と呼ばれていた上座部系の一派が勢力をもっていたと言われている。マヒンダがインド西部の言語による三蔵を伝えたということから考えても、スリランカに導入されたのはこの「雪山部」の伝統であったと考えてよいのではないかと思う。

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2006年2月24日 (金)

南方上座の源流を探る(8)

しかしとにかく、この十事の非法の問題をきっかけとしてサンガは分裂し、従来の規定の堅持を主張する立場が上座部となり(ただしこの時点で自派を上座部と呼んでいる形跡はない)、十事を認める立場が大衆部となった。そしてその後、この根本分裂を契機として、それぞれがまたいくつかの部派に別れ、アショーカ王の時代には、18~22と言われる数になっていたそうな。

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2006年2月23日 (木)

南方上座の源流を探る(7)

さて、この「十事の非法」は、それまで不許可とされていた十の事柄に対して、その規制を緩めるか否か、ということが問題になったものだ。

律の規定を緩めることは、素人目には「堕落」のように映るかもしれないが、必ずしもそうではない。そもそも、お釈迦様ご自身も、たとえば布教の際にはその土地の言葉で説法することを許されていたり、より厳格な律の制定を求めたデーヴァダッタをたしなめたりされていたように、生活規範としての律にはある程度「郷に入りては郷に従え」的な融通の利かせ方を認めておられたようなフシがある。

事実、サンガにおいて律は、所属する僧達の合議によって、比較的自由に制定改廃されていたと言われる。仏滅後100年の間に仏教教団は勢力範囲を大きく広げており、お釈迦様生存中のサンガとは、取り巻く環境が大きく異なる地にもサンガが生まれていた。そのような地で従来の律の規定を四角四面に守り通そうとすることはかえって不合理でさえある。従って、それぞれの地でその土地にあったサンガ運営がなされこと自体は、それほどおかしなことでもないのだ。

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2006年2月22日 (水)

南方上座の源流を探る(6)

★根本分裂
仏教教団は仏滅後100年ほどして、「十事の非法」についての判断をめぐって、上座部と大衆部に分裂したといわれている。この分裂は仏教史上「根本分裂」と呼ばれている。初めて本格的にサンガが分裂した、という出来事だからだ。

ところで「十事の非法」という言葉には注意が必要かもしれない。ここでいう非法というのは、仏陀の教え=法(dharma)に非ずということではなくて、律で浄・不浄という時に不浄(akalpa:僧侶が受取ることを許可されていないもの)とされるもの、を意味する言葉なのだ。

つまり、根本分裂の際に問題になったのは律の解釈についてであって、釈尊の教えをどう解釈するか、ということが問題になったのではない。この時点ではまだ、上座部・大衆部といっても、教えの理解に隔たりはなかったのだ。

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2006年2月21日 (火)

南方上座の源流を探る(5)


その後スリランカには、インド本土の仏教界におけるナーガールジュナの存在にも匹敵するような大論師ブッダゴーサが現れた。彼はシンハリ語で書かれていた論典を整理しながらパーリ語に訳しなおすなどの作業を行い、その後、『清浄道論』(ヴィスディマッガ)という、北伝アビダルマの大毘婆沙論に当たるような畢生の大著を表して南方上座部の教学を大成した。

しかしながら彼の後、スリランカ仏教界には彼の偉業を継ぐような目立った論師は現れず、密教の流行などともあいまって、本流である大寺派の勢力は一時衰微する。

その勢力が回復するのは11世紀ころ。仏教の復興を志す国王の支援のもと、サーリプッタ長老を中心とした復興運動が実を結んで、大寺派は再び名実ともにスリランカの国教の地位を回復する。この時、国王の宗教外交によって、大寺派の教義はミャンマー、タイなどにも伝えられ、それらの国でも国教の地位を占めることになった。

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2006年2月20日 (月)

南方上座の源流を探る(4)

ところで、この事件はもう一つ大きな変化を仏教界にもたらした。それまで口誦のみで伝えられてきた三蔵を、文字で書き残すという動きが現れたのだ。戒律の厳守を旨とする大寺派は、開放的な無畏山派の活動により、知らず知らずのうちに伝承の純粋さが損なわれていくのではないかということを危惧した。そのためそれまで頑なに守ってきた「純粋な伝承」を、劣化する前に文字で書き残しておこう、と考えたものらしい。

インドの宗教界ではヴェーダ以来、聖典は口伝されるものというのが常識だったので、このスリランカ仏教界の三蔵の書写は、まさに画期的な出来事だった。およそ紀元前1世紀のことというから、これは北伝の仏教関係の聖典が書写されるようになるずっと以前のこと、ということになる。北伝の漢訳アゴンがさまざまな部派に伝承されていた経典の寄せ集めであるのに対して、南伝のパーリ三蔵が今日まで完全な組織を留めているといわれるのは、まさにこの時の書写の成果といえるだろう。

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2006年2月19日 (日)

南方上座の源流を探る(3)

現在パーリ語と呼ばれている聖典原語も、ピシャーチャ語というこの地方の言葉を原型とするもので、これはお釈迦様の母語であるマガダ語とは別系統の言葉だとされている。

さてさて、この部派は開教から200年ほど経ったころに大きな分裂を経験することになる。仏教の保護に熱心だった当時の国王が、無畏山(アバヤ・ギリ)に大きな寺を建立・寄進したのだが、その寺の住職に、王家の親族にあたる僧侶を据えさせた。ところがこの住職が俗っ気の抜けきらない僧で、戒を犯してしきりに在家者と交流をもったということで、本山から破門されてしまったのだ。

この事件をきっかけにしてスリランカの仏教界ではその後1000年の長きにわたって、本流の大寺派と、この事件により分立した無畏山派との二派が並び立つ分裂状況が続いた。

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2006年2月18日 (土)

南方上座の源流を探る(2)

★スリランカ仏教史概略
「南方」上座部(テーラヴァーダ)はスリランカで発展した部派(非大乗)仏教の一派だ。インド統一と仏教保護で有名なアショーカ王が、師の一人であったといわれるモーガリプッタティッサからのスリランカ開教の勧めを受けて、マヒンダ(マヘーンドラ)という僧をかの地に派遣したことに端を発すると言われているから、その成立は紀元前3世紀ころ、ということになるだろうか。

ちなみに、このマヒンダという僧ははアショーカ王自身の庶子だそうで、王が即位前に地方官として赴任していた西域地方で妾に生ませた子だという。マヒンダはスリランカに遣わされるまで、西域で育ち学んだため、スリランカに導入された仏教は当時中インド西域に勢力を持っていた部派のものと近いそうだ。

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2006年2月17日 (金)

南方上座の源流を探る

最近「ヴィパッサナー瞑想法」という言葉をよく耳にする。これはミャンマーのマハーシ長老という人が開発した瞑想システムらしくて、最近脚光を浴びているスマナサーラ長老が唱導している瞑想法もこの系統のものらしい。もっとも、スマナサーラ氏は曹洞宗系の駒沢大学に留学していたことがあるらしいから、そこから何かしらの影響を受けている部分はあるかもしれないけれど。

ところで、この瞑想法を実践している人たちは、よく自分たちの学んでいる教えを「本上座部」と呼んでいるが、この本上座部の「本」とはどういうことなのだろう?

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