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2005年12月 5日 (月)

四顛倒の妄念と四念処:ゆる~いまとめ(2の2)

四念処観では初め、この身・受・心・法の四つそれぞれを個別に観想してゆき(別相念住)、それを十分に修習したのち、全部を一括して観察するように進みます(総相念住)。この修習を十分に行うと、身体が暖かくなり、加行道に進む準備が整います。

加行道では四諦の十六行相を観じ、仏教の真理を明確に見極め(:現観し)ます。そしてこれが極まると、あるときドミノ倒しのように欲界に属する煩悩が連鎖的に断ち切られる、という瞬間が訪れます。この境位が見道で、そこを通過して、欲界の煩悩の影響から離れた者を聖者といい、その最初の段階が預流とよばれます。

ところで、見道は15刹那と言われる非常に短い時間のうちに通過してしまいます。その15刹那と、それに続く16刹那目(修道の第一刹那目)だけが預流と呼ばれる段階なので、実際には預流の聖者に会うことは阿羅漢に会うより難しいことかもしれません(笑)

この預流以降の聖者の修行段階を修道といい、ここで残りの色界、無色界の煩悩を断ち切ると無学、すなわち阿羅漢となるわけです。

こうした階梯の大まかなものは根本分裂以前にすでに成立していたもので、北方・南方、大乗・上座の別を問わず、当時の仏教僧たちに共通した基礎学だったと思われます。

アビダルマが一つのシステムであるという根本を押さえていれば、一つ一つの用語をシステムから抜き取って安易に断章取義的に用いてしまうことは、すくなくとも伝統的な仏教の元の姿を知り、伝える上ではとても危険なことなんじゃないかと思います。たとえ個々の用語の説明や理解がその概念そのもののについて正しいものだったとしても、です。

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2005年12月 4日 (日)

四顛倒の妄念と四念処:ゆる~いまとめ(2の1)

お釈迦様が実際のところどう説かれたかは別として、アビダルマまでくれば修行の階梯というのは相当システマチックに組み上げられているわけです。というよりも、お釈迦様が対機説法で時間もレベルもばらばらに説かれた教えの内容を分析してシステマチックに組み上げた人工の体系がアビダルマですよね。

止観その他も、そのシステムの一つの段階であり、手法としてあるわけで、当然、何をどのように修行することによって、どういう結果がある、ということは予めそこに説かれているです。その修行の段階は大まかに言って5つ。資糧道、加行道、見道、修道、無学道があります。

止観は主に資糧道・加行道の段階に関わります。まず、資糧道では、まず五停心観と言われる、心を落ち着ける瞑想を行います。これが止(シャマタ)と言われる瞑想です。続いて、身・受・心・法という四つの対象について、それぞれを浄・楽・常・我とみている凡夫の素朴な見方の誤りを吟味していきます。これを四念処観と言いますが、このように、知的に対象を分析していくような瞑想を観(ヴィパシュヤナー)といい、四念処はその初めのものにして、主要な観法であるといえます。

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2005年12月 3日 (土)

四顛倒の妄念と四念処:ゆる~いまとめ(1)

衆生の苦の根源は身体・感受・心・法(存在)を浄・楽・常・我とみてしまう顛倒した(ひっくり返った)妄念であり、仏教が退治しようとしているのはまさにこれらの逆さまなものの見方だと思います。

そして、それら四つの実態が不浄・苦・無常・無我であるということを、師から教わり(聞)理屈で納得し(思)、それを何度も繰り返し実地に分析して体得・実感する(修)する、というのが修行の基本プランとなるはずです。

そしてここでいう「修」にあたるのが、四念処などの修習というもので、それを指して「観」(ヴィパシュヤナー)といいます。また、そういう精密な分析的観察を行うためには心を分析対象に集中させなければなりません。そうした観察を可能にする、精神が完全に統一され、対象のみに集中している状態を心一境性といいますが、これを「止」(シャマタ/サマタ)といいます。

また、ここから更に預流(聖者)に入るには、四諦の十六行相を観察して、見所断の煩悩を断つ、という所を経る必要があります。その関門を抜けたとき、修行者は欲界の煩悩を断った者として、聖者の仲間入りを果たします。

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