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2005年11月24日 (木)

苦行と座禅

狭義の苦行(タパス)というと「断食」と「ヘンなポーズ」(!?)が代表的ですが、これらは精神力を鍛えることで神通力を獲得するために行うもの、というのが一般的な理解だと思います。

釈尊の悟りは神通力ではないので、その意味では苦行と悟りは直接関係ないですよね。解脱には必要ないものなので、八正道の中にも説かれていらっしゃらないのでしょう。ただし、釈尊ご自身がそのことを知るためには通らなければいけない道だったとはいえるかもしれません。

いわゆる座禅、ということについてですが、「禅定」は明らかに悟りの為に必要な実践です。禅定にも段階があるのですが、インド(大乗)仏教では完全な精神集中状態で、事物の実相を見極めるという知的な瞑想を行うので、本来、無念無想になってしまうような段階の禅定までには(悟りのためには)踏み込みません。

一方、中国の禅はそういう「頭空っぽ」状態をよしとする宗派もあったようですし、日本で一般に理解されている禅も、そっち系統に近いように思います。道元禅師の曹洞宗になると、もはや禅の修行自体が悟りの実践だとされるようになりますね。

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2005年11月15日 (火)

おそうしき

先祖の霊・・・。う~ん、祖霊信仰というのは仏教の教義からでてくるものではなくて、バラモン教、あるいはインド古来の風習に由来するものだと思うんです。たとえばマハーバーラタなどには祖霊に供え物をしなかったために祟られるみたいな話はよくでてきます。

そういう点から言えば、法事などは本来的には仏教的ではない、といえるのですが、例えば四十九日法要などは、かならずしも主流ではないものの一応幾つかの経典や論書に説かれている「中有」(中陰)の説にもとづいているものなので、まったくのでまかせということでもありません。なんというか、仏教教義の徒花というべきものかもしれませんね(笑)

ちなみに、この中有というのはチベット語でバルドゥといいます。ポワという言葉が出てくることで、オウムが騒がれたころ一時期有名になった「チベット死者の書」という本がありますが、この本は本名をバルドゥ・トェ・ドゥルと言って、直訳すると「中有における聴聞による解脱」、という感じになるのですが、ここに説かれるのは、死後七日ごとに死者の為にお経をあげ供養することで、死者の良い生まれ変わりを助けるというものです。日本でも法要は七の倍数に日に行われますから、その点は目的も内容も共通していますね。(この本も必ずしも主流のものではありません)

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2005年11月14日 (月)

輪廻を数学っぽく考えてみる(3)

死はこの例えでは肉体変数の値が0になったとき、と考えることができますが、そのときでも当初の方程式の関係が維持されているかぎり、グラフ自体は途切れず、その変化を反映しながら続いていきます。自己意識は肉体の値が0のときの微係数の接線でしたから、グラフが途切れないならば、これも当然求めることができるはずですよね。

こんな感じで眺めると、肉体の死に至ったところで、自我を生み出す因縁の関係性が崩れない限り、自己意識は(その内容はともかく)生じ続けると考えられます。

私の理解する仏教的な死生観を数学的にあらわすとこんな感じでして、肉体が消滅しても自己意識は必ずしも消滅するとは限らないし、死後どうなるかは、業による、ということかな、などと考えております。

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2005年11月13日 (日)

輪廻を数学っぽく考えてみる(2)

なんというか、方程式で表される関係が成り立っているときに、その変数の値を色々変えていけば、関係式応じたグラフを描くことができますよね。

グラフ上の線は本来は点の集合ですが、遠目から見れば線にみえますよね。その仮象としての線を自我に相当するとみなしてみると、そのときそのときの自己意識は、その線を微分して得られる傾き(微係数)を表す直線みたいなものと考えることができると思うんです。

そうすると、時間の変化にそって肉体という変数の値が変化すれば自我という曲線もそれにあわせて変化すると考えられます。

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2005年11月12日 (土)

輪廻を数学っぽく考えてみる(1)

私は昔からよく「自分が存在していることの不思議さ」ということについて、ふと思いを馳せてしまうんですよ。まだうまく説明できない感覚なのですが、自分がこの世に存在している、ってなんだか不思議じゃないですか?

この不思議な感覚のことを詳しく知りたくて、哲学的なことや精神分析などに興味をもち、現在は仏教を勉強しているんですが、そのような経緯を経てなんとなく今納得しているのが、この「自己意識」というものは因縁和合によって生じる諸現象に与えられた仮象である、という仏教的な解釈なんです。

で、そのようなことを考えているので、肉体の変化や終わりも確かにそうした仮象たる自分の生起に大きな影響をもたらすだろうけれども、そのときにまだ仮象を生起させるような因縁が残っていればそれに応じた意識がその都度生起してくるだろうと思うわけです。

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2005年11月 7日 (月)

無題

大乗仏教では、空というのは中観でも唯識でも、成仏に至る道のりに5段階あるうちの第3段階で初めて直観するものとされていて、このときに108ある煩悩のうちの16個が断たれます。その後、修道という段階で修行をつみながら、残りの92個を順々につぶしていくことになります。つまり、空を見ただけであらゆる煩悩が絶たれる、ということではないんですね。

それでもその体験を経ることで、修行者には自己と他者の無区別・一体性という感覚が生起することになります。で、この時に「大悲」という、自分と相手とその間の行為に対して執着のない慈悲が生じることになり、菩薩はその慈悲に先導されて修行を行い、その修行により仏となるための智慧と功徳を蓄積していきます。・・・と、こういったことが仏教内での公式見解(?)のようなものとされています。

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2005年11月 6日 (日)

まさに雑感―サブカルチックな「空」について

すくなくともインド・チベットにおいて最終的に正当とされた修道論の説に従えば、空は、意識を分析の対象に集中した特別な禅定(止、心一境性)のなかで、明晰な意識によって対象を分析しつくすこと(観、個別観察)によって得られる、極めて意識的・理知的な無自性の観念で、これはたとえば「自分が宇宙に溶け出してしまう」といった、無意識的・感覚的なとは一線を画すものです。

ですから、自然に何かのきっかけで入ってしまうような、いわゆるトランス状態のようなものは、一つの「悟り」ではあるかもしれませんが、そういう意味でのある種の「覚醒」は、仏教にいう「悟り」からはちょっと外れているんじゃないか、と思います。「宇宙と一体」という字面だけみると、むしろヒンドゥー教に近い感じですしね。

もちろん、仏教といっても多種多様で、たとえば、宇宙と一体となる、というような感覚はもしかしたら中国の華厳学や真言密教的な世界観、あるいは禅宗などの教義とはマッチするかもしれませんので、仏教的じゃない、と言い切ってしまうことはむずかしいですけれど。

たしかに、原理主義的に、発祥の地であるインドで説かれた説が仏教のもっとも純粋な形だと言うことが妥当かどうか、ということについては議論の余地はあるかもしれません。しかしそれにしても、自己融解的な純粋経験のようなものが本当の意味での「悟り」ということであるならば、その感覚を説明するのに、なにも仏教を引き合いにださなくとも良いのではないか、とも思うのです。


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