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2005年10月10日 (月)

~閑話休題

しかし、もどかしいことに、その煩悩がいつ果てるかは依然として見当もつかない。深い瞑想に入り、新たな悪業を起こさないようにしたり、悪果を引き起こしそうな過去の業に対抗手段をとったりということはできるようになっても、先が見通せない以上、釈尊も、すっきり「悟った!」という思いにはなれなかったのでしょう。

それゆえ、釈尊は成道時の「悟り」、すなわち根源的な「渇愛」の存在を見出したことによって、個々の煩悩の源泉にあたるものを見つけ、倒すべき敵のボスキャラを知ったことで、いつ果てるとも知れなかった自らの煩悩との戦い、というものの終着点を知ることになり、それにより「知るべきことの全てを知った」と思われたのではないでしょうか。

そして、それを知ってしまえば、あとはすでに身につけた方策により、煩悩をつぶしてゆくだけです。まぁ、成道の時点で釈尊自身の中にはそんな煩悩はなくなっていたのだとは思いますが。


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