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2005年10月 9日 (日)

~閑話休題

釈尊が開かれた悟りというのは、我々に直接的に苦をもたらす煩悩の更に下にある、根源的な「渇愛」を見出されたということにあるだと思います。今まで誰も気付くことのできなかったソレを見出したこと、それが無明を破った、ということの意味であり、「悟り」ということなのだと思います。

けれども、ソレを見出すこと自体は「悟り」ではあっても、そのこと自体によって輪廻から脱するというようなものではないと思うのです。煩悩はやはり行によって抑え、浄化していくしかない。ただ、その悟りによって、無害化はされるのだと思います。

ただ、釈尊自身は成道前に苦行に没頭されることによって、既に「単発的な」煩悩を克服する術自体は十分に身につけておられたのではないか、と思うのです。というのも、当時のインドでは既に業と輪廻の関係は常識的なものとなっていて、解脱をするには業を積まなければよく、そのためには煩悩を滅すればよい、というのは苦行者(シュラマナ:舎門)たちの出した一つの結論だったように思われますし、伝承では釈尊はその道については極め尽くされたということになっているからです。


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