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2005年10月31日 (月)

輪廻についての断章(3)

この「私」にあたる概念(おそらくハイデガーの現存在/ダー・ザインというのと近いイメージの概念なんじゃないかとおもいますが・・・)を仏教では「人」(プドガラ)と呼ぶ ――といっていいと思いますが―― これは架空の存在(仮設有)であって、実在ではない、とされます。なぜなら、プドガラに対応する実在は、先に挙げた五蘊のどの範疇の中にも見出だすことができないからです。

しかしそれではプドガラは全く存在しない(畢竟無)なのかと言えばそうではない。現に、「自分」という意識(こちらはデカルトのコギトに近いイメージでしょうか?)は、存在に疑いを起こすという、そのこと自体が自らの存在を主張することになるような、そんな概念だからです。

こういう状態がまさに「無我」であり「空」ということになると思います。すなわち、プドガラは空なのです。ですが、現に生存し、「私」という意識を持っている私たちにとっては、その空なるプドガラこそが、「私」という言葉の指す対象となっているということもまた事実です。

では、この「私」という意識はどうして生じるのか、といえば、因果であり、縁起によって、そのような知覚が起こることによって、生じるのです。

「私」が存在するから認識されるのではなくて、認識が起こるから、それを追認する形で「私」という観念が生じ、それに名前が与えられることで、概念として固定化される。そして概念が言葉を介して共有されることにより、存在性が認定されることになります。

話を何が輪廻するのか、ということに戻すと、主観としては「私」が輪廻することになりますが、存在論的には因果の流れのみがある、ということになるのだと思います。

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2005年10月28日 (金)

輪廻についての断章(2)

ところで、輪廻のということを考えるとき、我々は素朴に「肉体の終わりに魂が別の生に移る」というようなイメージを描くと思います。

心身二元論をとるときには心と身体は二律背反の関係になるので、我々は上で見たような「私」を、肉体ではないもの、と言う資格で必然的に心と同置することになるのですが、それをそのまま仏教に持ち込んでしまってはいけないでしょう。

仏教でも素朴な形での心身二元論的な言説が出てくることはありますが、公式見解としては「五蘊」ということを説きますよね。

五蘊とは五つの集まりということで、具体的には色(色・形)、受(感覚)、想(想念・イメージ作用)、行(潜在力、識(識別知)の五つですけれど、「私」という存在は、この五つの範疇の重なりあいとして認識される、と仏教では説きます。

しかし、これは二元論に対する五元論を説く、というものではありません。この説が説かれた意図は、五つの原理があるということ示そうとするのではなくて、そもそも、「私」という言葉に対応する何かがこの五つのいずれにも存在しないということを言うためのものだったと考えられます。

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2005年10月27日 (木)

輪廻についての断章(1)

お釈迦様は「輪廻」を説いたのか?

「輪廻」については議論百出、肯定・否定、みなさん色々なご意見をお持ちでしょうが、
私は肯定派です。広い意味での「輪廻」を認めなければ、仏教自体が成り立たない、と考えます。釈尊と同時代人で、業因果を否定した素朴唯物論者プーラナ・カッサパは、仏教徒から「外道」とされていますしね。

広い意味での、とつけたことについてですけど、「輪廻」には二つの柱があるワケです。

1)輪廻の主体(何が輪廻するか)
2)因果応報(どうして輪廻するか)

仏教の場合、2)については問題ないにしても、1)については「無我説」を採っている以上、ストレートには認めがたいわけですよね?

そこで仏教の場合、一般的な輪廻説にちょっとアレンジが加えられているので、厳密な意味でのスタンダードな輪廻とはいえないな、ということで「広い意味で」とつけてみた次第です。

ちなみに、この問題について仏教では「刹那滅」の「心相続」という考え方をとることでクリアしようとしているんですが、あえてそのような説をひねり出してまで輪廻を否定せずにおこうとしたところにも、輪廻を尊重する姿勢が垣間見られるといえるのではないでしょうか?

ただ、釈尊の死後整備された「仏教」と、釈尊ご自身の思想は違う、という主張もありえますよね・・・。

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2005年10月10日 (月)

~閑話休題

しかし、もどかしいことに、その煩悩がいつ果てるかは依然として見当もつかない。深い瞑想に入り、新たな悪業を起こさないようにしたり、悪果を引き起こしそうな過去の業に対抗手段をとったりということはできるようになっても、先が見通せない以上、釈尊も、すっきり「悟った!」という思いにはなれなかったのでしょう。

それゆえ、釈尊は成道時の「悟り」、すなわち根源的な「渇愛」の存在を見出したことによって、個々の煩悩の源泉にあたるものを見つけ、倒すべき敵のボスキャラを知ったことで、いつ果てるとも知れなかった自らの煩悩との戦い、というものの終着点を知ることになり、それにより「知るべきことの全てを知った」と思われたのではないでしょうか。

そして、それを知ってしまえば、あとはすでに身につけた方策により、煩悩をつぶしてゆくだけです。まぁ、成道の時点で釈尊自身の中にはそんな煩悩はなくなっていたのだとは思いますが。

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2005年10月 9日 (日)

~閑話休題

釈尊が開かれた悟りというのは、我々に直接的に苦をもたらす煩悩の更に下にある、根源的な「渇愛」を見出されたということにあるだと思います。今まで誰も気付くことのできなかったソレを見出したこと、それが無明を破った、ということの意味であり、「悟り」ということなのだと思います。

けれども、ソレを見出すこと自体は「悟り」ではあっても、そのこと自体によって輪廻から脱するというようなものではないと思うのです。煩悩はやはり行によって抑え、浄化していくしかない。ただ、その悟りによって、無害化はされるのだと思います。

ただ、釈尊自身は成道前に苦行に没頭されることによって、既に「単発的な」煩悩を克服する術自体は十分に身につけておられたのではないか、と思うのです。というのも、当時のインドでは既に業と輪廻の関係は常識的なものとなっていて、解脱をするには業を積まなければよく、そのためには煩悩を滅すればよい、というのは苦行者(シュラマナ:舎門)たちの出した一つの結論だったように思われますし、伝承では釈尊はその道については極め尽くされたということになっているからです。

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