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2005年9月30日 (金)

~閑話休題:縁起のよい話

現存の文献に当たって、素直に解釈すれば、釈尊の悟りの内容は縁起は縁起でも「十二支」縁起だ、ということになるでしょう。

ところで、十二支縁起の眼目は、「人間の苦しみの根源は『無明』にある」、と喝破したことにあると思います。これは釈尊が「色即是空 空即是色」的な縁起の理法を悟ったということとは違うと思うんです。

一切皆空が真理である、ということは確かに仏教の基本的かつ根本的な教説だと思いますが、たとえば空だとか縁起だとか、そういう概念を知ったこと、観想したことが果たして悟りといえるかどうか、ということは少々疑問です。

私自身あまりうまく整理できていないのですが、釈尊の悟りの意義は、十二支縁起の始点を見出し、捕まえたことにあるのではないかと思うんです。私見ですが、「一切智」ということも、世界の仕組みを支えるメタ構造を見つけたということではなくて、そのメタ構造の始点を捕らえたということで言われているのではないでしょうか?

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2005年9月 9日 (金)

~閑話休題

仏陀の原語buddhaは、もともと「目覚める」という意味をもつ動詞√budhの過去分詞に由来する名詞ですから、知者(知識を積み上げ蓄えてある境地に上り詰める)というよりは、覚者(視覚が啓けることで一瞬にして目の前の風景が変る)というイメージの方が強いんじゃないかと思います。

実際、衆生を輪廻に繋縛する元凶は「無明」と言われますし、それを破る智慧は「光」に譬えられることが多いですしね。 いずれにしろ、仏教的な悟りということでしたら、輪廻的生存からの解脱、という要素というか視点がどこかに、何らかの形で入ってこないと具合が悪いと思います。

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2005年9月 7日 (水)

~閑話休題

「悟り」とは結局、ありのままの姿を見抜く、ということなんだと思います。常識や煩悩といったバイアスによって偏向した生得的なものの見方を離れて、如実に実相を見る、と。そういう知見が悟りの智慧なのではないかと思います。

世の中や人生にはいろいろな側面がありますから、それぞれに対する如実知見というものがありうるでしょう。その意味で悟りも様々でありえます。例えば『華厳経』の入法界品は善財(スダナ)という小坊主が、いろいろな善知識(知者)から教えを授かりながら、仏の悟りを目指して遍歴するというお話ですが、そこにはいろいろな「悟り」の姿が表現されています。

一方、そうした様々な智慧のなかには輪廻からの解脱、ということを可能にする如実知見というものあると考えられます。仏教ではそれを指して無明を破る智慧、すなわち仏の悟り、というようにいうのではないでしょうか?

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2005年9月 6日 (火)

~閑話休題

仏教では「対機説法」と同時に「次第説法」ということが言われていています。

つまり、業の因果を説き、欲滅を説き、最後に縁起や四諦を説く、というように相手の理解にあわせて順次説法の内容を変えていく、ということです。

あらゆる教えが書物として残されるようになって、そういう教説の段階も平坦にならされてしまいました。本当はらせんを描いて上っていくはずなのに、蚊取り線香みたいにペッタンコになっちゃって、よほど注意して読まないと、そうした教えの階層が再現できなくなってしまった。(本当はそんなに安直な図式化ができるもんじゃないんでしょうが・・・)

一切が清浄であるとか、煩悩即菩提といったことは、それ自体は真実で、また衝撃的な知見でもあるのですが、業道因果を自分自身の問題として引き受けてない人が一足飛びに其の段階の教説を聞いても、その「意味」は分かっても、「意義」まではなかなか体得できないのではないかと思います。

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2005年9月 5日 (月)

~閑話休題:真宗教義の核心(3)

一方で、いままでのように、「上人の体験は普遍的だ。阿弥陀仏の本願に沿ったものであるから」とし、さらにその阿弥陀仏の本願については、お経に書いてあるから真実だ、お経は仏さまの言葉だから真実だ、と言うことを根拠とするとすれば当然、じゃあそのお経は真実なのか?という問題が出てきますよね。すると、それを証明しない限り真宗の真実性は確立されないことになります。

お経が真実である、ということが自明のこととして受け入れられている時代や環境であれば、そのことだけで証明とすることもできるでしょう。しかし現在はどうでしょうか?すくなくとも、ちょっと仏教を客観的に学んだことのある人々の間では、そうした自明性は崩れてしまっています。

そんなわけで私は以前、大乗仏説を真宗が真実であることの根拠とするのはキケンじゃないですか?とお尋ねしたわけです。大乗非仏説というテーマに限ってすら、なかなか反駁しがたいものですからね。

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2005年9月 4日 (日)

~閑話休題:真宗教義の核心(2)

諍論で、ともに法然上人から真剣に学んでいた高弟達がなぜ親鸞上人と同じ理解に至らなかったのか、という疑問についても、高弟達はある意味聖典の字義どおりの読みの保持していたから、ということなのかもしれません。

真宗人は、経典論書のエキセントリックな読み替えすらも厭わないという、そうした親鸞上人の教説の正当性の根拠は、まさに上人の体験にこそある、というそのことをまず認め、表明すべきですし、むしろ、真に「顕正」を望むのであれば、その体験の方から話し始めなければない、ということになると思います。

体験というものはそもそも本質的に私的・個人的なものですから、その体験が上人個人のものではなく、空間も時間も越えた、普遍的な真実だ、というふうに証明することは至難なことです。まぁ、そういう証明しがたいものを教義の核心としている、ということは、確かになかなか表に出しにくいことなのかもしれませんが・・・。

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2005年9月 3日 (土)

~閑話休題:真宗教義の核心(1)

(※毎度のことですが、対論をかなりムリに抜粋・編集してるため、うまく修正できずにヘンな日本語になっている部分がありますが、あしからず)


親鸞上人は自己の主張を証拠立てるために『教行信証』という本を執筆・編纂しておりますが、その本のなかに自説を後ろ立てるために引かれた引用文の中にさえ、単なる誤字・脱字でない、上人独特の意図的な字句の変更や読み替えが見られます。

つまり、それらの証文も、原典そのままに引かれているのではなく、上人独自の視点から読み抜かれ、解釈を加えられている、ということでありましょうが、その独自の視点が何に由来するか、といえば、それはやはり上人の一念の体験に他ならないワケです。つまり、こと真宗の教学にかんしては、経文から教義が組み立てられているのではなくて、上人の体験がまずあって、それをサポートするために、教義が構成されていると見ることができるのです。まさに「弥陀の本願まことにおわしませば」の世界です。

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2005年9月 2日 (金)

~閑話休題:真宗の真の字の言われとは?(2)

従って、「信心も、信心を得ることも、信心を得させることも弥陀の計らい」ということになり、このことを指して絶対他力というのです。また、それゆえに「余の雑行を捨てて王本願に帰せ」という。これは法然上人の真意でもあり(と親鸞上人はおっしゃいます)、このことをもって真宗というのです。

ここまで書けば「信心同異の諍論」については解説する必要もないかと思いますが、ようするに法然上人の信心も親鸞上人の信心も、自分の心ではなく、弥陀から授けられた六字名号だから同じなのです。

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2005年9月 1日 (木)

~閑話休題:真宗の真の字の言われとは?(1)

※またまたミクシィでの議論のコピーです・・・(汗)

真宗で言う「信心」というのは、「信じる心」、あるいは「信じようとする自力」ではなくて「マコトの心」であり、「至心」に同じ。それは「信楽」「欲生」と一つのものであって、帰命である「南無」と、阿弥陀仏の廻向である往生の行(即是其行)「阿弥陀仏」が一体となった六字名号そのもの(法体成就の機法一体)です。もちろんこれは阿弥陀様が五劫の思惟と永劫の修行により成就されたものですよね。

しかして、その名号を聞いて(聞其名号)信心をわが身に生じることを信心を得るといい、心念冥合の機法一体というわけです。

しかるにその聞の一念は阿弥陀仏の摂取の光明の働きにより起こるもの、そこに至るまでの宿善は、これまた阿弥陀仏の調熟の光明により養育されるもの。そしてその宿善に導かれて19、20を経て18に転入せしめられるのです。

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