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2005年8月30日 (火)

オススメの入門書

城福雅伸さんの『明解【仏教】入門』(春秋社)という本を先日見つけたのですが、この本、これから仏教を勉強されるというjohuku方には一押しです。題名の通り叙述も「明解」で、宗派、学派的な偏りもなく、仏教の一般的な教理全体が体系的に概観できるように書かれています。仏教に関心をもたれている方は是非ご一読を!

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2005年8月20日 (土)

~閑話休題:浄土教の起源についての仮説(4)

末法思想と浄土教の関係はとても簡単なんです。要するに今生、この世では成仏などできないから、阿弥陀仏の極楽浄土(ここには阿弥陀仏がいるので言ってみれば「正法」の時代なわけです)に生まれ変わらせていただいて、そこで成仏させていただきましょう、ということです。

浄土宗は念仏を唱えれば臨終のときに阿弥陀仏がお迎えに来てくれる、と説き、真宗は念仏すれば(信心を得れば)その場で往生が決定する、と説きます。

両者とも往生すれば成仏は時間の問題だ、ということで往生=成仏と説きますので、浄土宗は「死んだら仏」といいますし、真宗は「信心を得れば弥勒に並ぶ」というんです。弥勒というのはお釈迦様から次の仏はオマエだ、と指名された人物ですから、結局、仏になるのは決まった、ということを言っているわけですね。

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2005年8月19日 (金)

~閑話休題:浄土教の起源についての仮説(3)

仏伝では、過去世、まだ菩薩だったころの釈尊が師の導きに従いながら修行を進めていく、という内容が中心となっていました。物語の中には釈尊の師としてしばしば「仏」が登場しましたが、そうした「過去仏」が、仏伝の普及とともに次第に一般的な存在となってゆき、ついには教義的にも認められるようになっていきました。当初は過去七仏という七柱の仏陀が認められていたようです。

そのようにして仏という概念が釈尊個人から切り離され、また各地の民話を取り入れながら増広されていった仏伝などと一緒に多仏思想が普及して行く過程で、外国の神格が過去仏として取り込まれ、ついには独立した宗派を築くまでになった、というのが浄土教(・・・というよりも阿弥陀仏を本尊とする宗派)が成立するにいたった、大まかな流れなんじゃないかと思います。

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2005年8月18日 (木)

~閑話休題:浄土教の起源についての仮説(2)

最初期の大乗経典の一つとされる法華経あたりから、仏の永遠性というテーマをめぐって、肉体的生存とは切り離された、真理そのものとしての仏の身体というものが考えられるようになります。法身とよばれる概念なのですが、この概念が確立したことにより、仏は結果的に釈尊という個人から切り離されることになりました。

一方、大乗の成立期にはまた、仏を目指して輪廻しながら功徳を積む存在としての「菩薩」という概念が生成してきます。そうした状況の中で、菩薩の一人として、生まれ変わり死に変わりしながら続けてこれらたはずの、釈尊の前世における修行の道のりということに関心が集まり、各地に伝わる民話の類を釈尊の過去世の求道物語のエピソードにしたてて語る「仏伝」が在家の信者達の間で大流行したといわれています。

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~閑話休題:浄土教の起源についての仮説(1)

起源というのはなかなか捉えがたいものですが、浄土教の本尊である阿弥陀仏は、その別名の一つが無量光だということから、一説にはゾロアスター教のアフラマズダ神の影響をうけて成立したものだろう、などと言われているようです。真偽のほどはさだかではありませんが。

阿弥陀仏に限らず、複数の仏陀の存在が大々的に認められるようになる、いわゆる「多仏思想」の芽生えは一般に大乗の成立と時を同じくしているといわれています。

というのも、多数の仏ということが語られるようになる為には、まず、仏という呼称が、釈尊という個人に与えられた尊称ではなくて、真理を体得した者を意味する一般名詞へと変わっていなくてはなりませんが、そもそもお釈迦様を唯一の仏と奉じ、自らは阿羅漢の悟りを目指すという態度をとった初期仏教の時代には、釈尊以外の仏が認められる素地が無く、多仏思想は芽生えにくかっただろう、と考えられるからです。

(とはいえ、釈尊自身がアーガマ(原始仏典)のなかに、自分は先人の悟った真理を再発見したに過ぎない、といった言葉を残していますので、その意味では、アーガマの研究がさかんに進められた初期仏教の時代に、「複数の仏陀」という概念が生じていてもそれはそれでありえることではあります。)

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2005年8月11日 (木)

~閑話休題:ジョウブツについて(4)

もっとも普通の仏教教理では、成仏するのには、普通は52の段階を三大アソウギ100大劫(天文学的数字です・・・)かけてのぼる、などといいます。

ですから、普通の真面目な大乗教徒であれば、たまたま今生がその満期にあたれば今生に成仏するでしょうし、あと50劫残っているならば、満期の時までは輪廻を続けて、その時に成仏することになるでしょう。(ちなみに大乗の修行者=菩薩は、成仏するまで修行に励む、と誓いを立てていますから、この間、わざわざ自分から輪廻するように仕向けて、修行のために輪廻し続けますます)

でも、超優秀な人は途中を飛び級できるのだそうで、そういう人はもう少し短縮できるのでしょうね。

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2005年8月 6日 (土)

~閑話休題:BuSuKuってダレよ!?(2)

で、あるとき彼のそんなウワサが在籍していたナーランダー大学のお偉方の耳に入って、「大学にいながら遊び呆けているとはけしからん!そんなヤツ、テストして不合格なら追放しよう」ということになって、ついにテストされることになったんです。

その時に即興で吟じて見せたと言われるのが、有名(マニアの間で?)な「ボディチャリヤーヴァターラ」という仏教詩集(?)なんです。

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2005年8月 5日 (金)

~閑話休題:BuSuKuってダレよ!?(1)

”BuSuKu”というハンドルネームは、私が主に研究している、8世紀ころインドで活躍した仏教僧のシャーンティデーヴァという人のあだ名にちなんだものです。

この時代の人物としてはむしろ珍しいくらいに詳しい伝記が残されているのですが、それでもこのシャーンティデーヴァという人、なかなか謎な人なのです。

一般には中観派に属し、利他行的な実践を重視する学僧だといわれていますが、一方、伝記には、お天道様の出ているうちは修行も学問もせずに、食って(√bhuj)寝て(√sup)引きこもって(√ku-?)ばかりいやがる・・・、と同僚にからかわれて、こんなあだ名(”bhusuku”)とつけられちゃった、などというエピソードも書かれています。

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2005年8月 2日 (火)

~閑話休題:雑感

輪廻に類する思想はギリシャなどでも説かれるそうですが、輪廻思想の本家はどちらなのでしょう?「輪廻」という訳語自体は恐らくインド由来のものでしょうが、似たような思想でも意味するところは必ずしも同じではないでしょうから、それぞれに発展した可能性もあるでしょうね。

ただオモシロイことに、インドでは輪廻はもともと司祭階級(バラモン)ではなくて、王族階級(クシャトリア)階級に伝わる秘伝だったということになっているので、その意味では外来のものである可能性は高いですね。

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