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2005年7月30日 (土)

~閑話休題:ジョウブツについて(3)

解脱は輪廻からの解脱と考えてしまって大過ないのですが、成仏とは別のものです。原始仏教にはそもそも成仏、という考え方がないのです。

原始仏教、初期仏教と言われる大乗以前の仏教では、修行者の最終到達点は阿羅漢と呼ばれる存在で、それは煩悩とその根源を滅し尽くして、解脱した人ということです。これは自分の解脱だけを目標とするものなので、後に大乗側から「小乗」と言われてしまうのです。

大乗ではむしろ、自分の解脱より先に、他の衆生を涅槃に導いてやらねばならない、と考えます。いわゆる慈悲、というものですが、他人を解脱させるには当然自分も解脱できるだけの知識と経験が必要になります。そうした条件を全て備えたのが仏で、大乗修行者はその仏になること(成仏)を目指しているので、自分に経験が足りないと思えば、望めば解脱できる状態にあったとしても、自ら修行の為に輪廻するのです。これを大悲闡提などといいます。

解脱≠成仏で、むしろ成仏の為に自ら進んで輪廻する、というのは大乗の特異な考え方ですが、これはそのように考えるもの、と慣れていただくしかありません(汗)

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2005年7月28日 (木)

~閑話休題:ジョウブツについて(2)

このうち、1)は普通の仏教、2)は本覚思想、3)は密教に代表される考え方なのですが、法華経はどうやら2)のパターン近いようですね。

浄土教は基本的には1)のラインなのですが、現世はとんでもない悪世だし、自分も非力だから現状はとても十分な修行を行える環境にない、ということで、すばらしい修行環境の整った阿弥陀様の浄土(研修センターのようなもの?)に呼んで頂いて、バリバリ修行に励もう、というような思想です。

で、浄土に往って生まれることを往生というのですが、死んだときにお迎えに来てくれるというのが浄土宗、生きているうちに「予約完了」を知ることができる、というのが浄土真宗なのですが、いずれにしても現世では成仏はできません。しかし浄土に往けさえすれば成仏は決定的、ということから往生=成仏などと言われるのです。

阿弥陀仏は仏とある通り仏様ですが、成仏する以前は法蔵菩薩という菩薩(人間?)だったといわれています。で、仏門に入ったときに、「あらゆる人がのびのびと修行できる環境の整った施設(仏国土)を作るぞ!」と決意して修行を重ね、ついに極楽浄土という自らの仏国土を完成して、そこの仏になったというわけです。

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2005年7月27日 (水)

~閑話休題:ジョウブツについて(1)

誤解を恐れず簡単にいってしまえば、まず、成仏は文字通り仏に成ることなので、大乗教徒にとってのみの理想ということになります。一方、(原始仏教は一先ずおいておくとして)いわゆる小乗の目指す最高の境地は仏ではないので、彼らは成仏はしません。

仏というのは覚行窮満といって、悟りの智慧も利他の行による方便の自在性もともに窮極に満足し、完成した存在ということです。

で、悟りの智慧は雑念を振り払った最高に集中した精神状態(止)で、物事のありのままの姿を見通す観察(観)を行うことで得ることができます。

これと同時に、色々な行を修めて、衆生を救う手立て(方便)を全て身につけると、はれて仏様になることができます。

ところで、その二つの条件を備えるためには大まかに言って3通りの仕方があると思うんです。
1)禅定と利他行をコツコツ積み重ねる
2)仏性に気付く、という仕方で、今現在のありのままが実は悟っているということなんだ、と認識を改める。
3)ヨーガにより、仏のイメージに自分を合一させ、一体化する。

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2005年7月25日 (月)

~閑話休題:救われない信仰

大乗仏教にも救済と信仰といった概念はもちろんあります。ただ、この言葉について思いをめぐらせる際には、ちょっとした注意が必要です。

救済・信仰といった言葉を聴くと、私たちは無意識のうちについ、自分を救済される側にみたてて、「何をどう信仰すれば、どのように救ってもらえるのだろう?」と、専らその方向からばかりものを考えてしまうのですが、大乗教徒にとっての救済なり信仰なりといったものは、じつは全く逆の立場から語られるものであったのではないかと思うのです。

仏様が自分の上に救いの蜘蛛の糸を垂らしてくれることを願って信仰したり、祈ったり・・・というのは菩薩の姿としては正しくありません。むしろ、「自分こそは利他行を使命として働き抜こう」、とする決意と、その決意に従って断行されるところの行動にこそ、大乗教徒の信仰の姿があるように思います。

救われるための信仰ではなくて、救うための信仰。だからこそ、菩薩は衆生利益に資するいろいろな知識や力を身につけていかねばならず、教理も修行法もどんどん緻密に組織化されていったのだと思います。

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2005年7月24日 (日)

~閑話休題:門外漢の唯識談義(2)

それならばその「縁」とは何なのか?外界の契機じゃないのか?という疑問が生じますが、それはそうではなくて、直前の瞬間の阿頼耶識ということになっているように思います。(この辺は詳しくないので私にはあまり突っ込まないでくださいね(笑))

と、唯識についてはどの段階の説をどの方面から見るか、ということによって見解は様々だと思いますが、大略は上のようなものだと思います。

いずれにしても、インド哲学の場合はどんなトピックにも修道論的な要素が絡むので、単純に認識論として読むことは論者の意に沿わないと思うんです。唯識も入無相方便という、禅定中に空を体得するための観法と密接に関係しているもので、もともとは単に外界不可知論を唱えるためのものではありませんでした。

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2005年7月23日 (土)

~閑話休題:門外漢の唯識談義

>唯識が「主観が対象を規定しているのだ」という認識論程度なら(中観だ、唯識だといっても、根本的な対立はないのではないか?)

まず、「主観が対象を規定している」ということが、いわゆる「物自体」の実在性の如何については問わずに、感覚・知覚されたもののみを存在するとみなす、ということであれば、唯識の考え方とはちょっと違うように思います。

というのも、唯識の「識」は(受動的な)認識(perception)のことではなくて、むしろ(能動的な)表象作用(vijJapti)のことを指すからです。(vijJaptiという単語にある”p”は「使役」をあらわす標識字なので、「認識せしめるもの」(≒表象作用)といった意味あいになります)

この表象作用を「心」とするあたりが唯識のオモシロイところでもあるのですが、引用してくださった辞書にもあるように、この阿頼耶識(=業)が縁に応じて発現し展開するということのみがある、というのが唯識だ、ということになります。

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2005年7月20日 (水)

~閑話休題:ペラギウス(4)

ペラギウスの説く所は、いってみれば阿弥陀クジのようなもので、それぞれの分岐点で正しい選択をすれば、おのずと救霊というゴールに至るというものだと思います。その都度行う選択こそが、救霊へと自らを運ぶ契機なのだ、と。こうなると自分の行動についてはどんな些細なことにも自覚的にならざるを得ないですよね。「自由の裏に責任、権利の裏に義務」という発想の源泉は意外とこのあたりかも、なんて思いました。ただの気まぐれな思い付きですけど。

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2005年7月19日 (火)

~閑話休題:ペラギウス(3)

ペラギウスの説で私が面白いと思うのは、「救霊にいたる道は功徳を積むこと」と主張する点です。

一般に(高校の倫理などでは)キリスト教は「恩寵による救済の宗教」とされ、たとえば「修行による悟りの宗教」と言われる仏教と対比的に説明されます。そのいみでは、彼の説く積善主義は、どちらかといえば仏教的な発想に似ていますよね。だからこそ異端とされたのでしょう。

それでは仏教との違いは?、というと、ペラギウスの積善主義は「自由意志によって善悪を自ら選び取る」という、選択の意思に重きを置くものである点にあるのではないかと思います。仏教の積善主義は元来、善なる業は楽果をもたらすという業因果説にもとづくもの、といえるでしょうから。

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2005年7月18日 (月)

~閑話休題:ペラギウス(2)

B00027LIHAそんなこんなでペラギウスについて興味を持つようになり、ちょっと調べてみたのですが、実はこの人物、去年の今頃(だったかな?)公開されていた映画『キング・アーサー』に、アーサーの心の師という設定で登場していたようなのです。この映画は私も見たので、じつは「はじめまして」ではなかったのですね。

この両者、ブリタニア出身ということと、時代が一致するということで関係づけられたのでしょうが、なかなかオモシロイ設定だとおもいました。そういえばアーサー、映画の中でやたらと「自由!自由!」と叫んでいましたが、ペラギウスの自由意志ということに引っ掛けていたんですね。ちょっとズレているような気がしますけど。

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2005年7月17日 (日)

~閑話休題:ペラギウス(1)

なぜかキリスト教の話。といってもお堅い話ではありません。

先日、ある人とキリスト教の教義について意見交換する機会があったのですが(というか、実際は私の素人見解をやんわりとたしなめられたんですケド・・・)、その時に相手の方に、5世紀ころに活躍したブリタニア出身の修道士、ペラギウスという人物のことを教えていただきました。

この人の主張は「人には自由意志があり、善悪いずれの行為を行うことも選ぶことができる。従って、生きている間は善に励み完全な人格になることを目指さなければならない」というものだったらしいのですが、これは洗礼による贖罪というカトリックの教義を真っ向から否定するものだったので、あの有名なヒッポの教父アウグスティヌスに名指しで厳しく批判されたのだそうです(論駁のために記した書簡の内容が現在も伝わっている)。アウグスティヌスが抑えにかからなければならなかったということは、逆に言えば、その影響力は相当なものだったということなのでしょう。

(参考)http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9A%E3%83%A9%E3%82%AE%E3%82%A6%E3%82%B9%E4%B8%BB%E7%BE%A9

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2005年7月 7日 (木)

~閑話休題:廻向診断(2)

その物語に乗っかり、その理想をあえて選び取った大乗教徒にとっては、使命とされる利他行を遂行し続けることこそが、自分が今生きているということに意味をもたらす条件となるのです。「悟り」すら、他者の完全な救済に必要だから、ということで追求されるものとなります。そして、そのような利他行を成立させる思想的根拠、成立基盤が廻向という考え方の中にあるのです。

そう考えると、廻向というのはこれが成り立つならば大乗が成立し、成立しないなら大乗というあり方自体が成立しない、という象徴的な概念だと言うことができるように思います。

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2005年7月 6日 (水)

~閑話休題:廻向診断(1)

「廻向」、とは、広くは何かを本来至るべき所とは別のところに廻らせ、差し向けることをいい、狭義では、仏教において自分が積んだ功徳を他人の幸福や菩提の為に差し向けることをいいます。

業因業果の流れを曲げるわけですから、廻向には「業の空」ということが前提にされてますし、また、他人に善業の功徳を振り向ける、という発想の原点には、釈尊が梵天勧請によって衆生利益の為に涅槃に入ることを思いとどまられたということ、「利他心」、があると思うんです。

大乗は空と慈悲ということを強調しますよね。なぜこれらが強調されるかといえば、そもそも大乗という発想自体に、他者の教化を自らの使命とすることで、本来的には無意味な人生に意味を賦与し、人生を肯定的に見ようとするという一面があることによるのです。つまり大乗とは仏教における人生観の新解釈であり、(架空といってしまえば架空ですが)人生を意味づけする「大きな物語」だ、ということでもあるのです。

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