« 2005年3月 | トップページ | 2005年6月 »

2005年5月31日 (火)

~閑話休題・エピソード1(2)

大乗の説だとこれに1ヒネリ加えられます。そもそも大乗の修行者=菩薩は、お釈迦様が悟った後、いったんは考えた自殺を思いとどまって、その後約40年にわたって衆生に教えを説かれた、という伝承から、阿羅漢ではなく、ホトケになるための条件として「慈悲」という原理を引き出してきて、それを修行者の理想としています。

つまり、輪廻的生存を嫌って解脱してしまいたい・・・という思いは彼らにもあるにはあるのでしょうが(!?)、そういう利己的な希望は脇に退けておき、ひたすら「慈悲」にもとづく利他の為にだけこの世に生存しようとしているのが菩薩なのです。


(またまた、つづく・・・)

| コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月29日 (日)

~閑話休題・エピソード1(1)

実は前回までこのタイトルで書いてきたことは、この後の内容に続けて書かれたものでした。時間的に遡ることになりますので、某映画をもじって「エピソード1」と名づけみました(笑)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
>いつも疑問に思うのですが、執着がなくなったのに「生き
>る」だとか「慈愛」だとかそういった選択肢が残っているこ
>とに、何か矛盾を感じるのですが…。生きたければ死が嫌だ
>っていう執着につながらないんですか?

この点はなかなか興味深いですよね。一応、議論のタタキ台に、表面的に言えることだけ書いてみます。

いわゆる「小乗仏教」ではそもそも輪廻的生存からの解脱をもくろんでいるわけで、「生きたい」という気持ちよりも消滅(涅槃)してしまいたいという動機の方が最初から強いのです。事実、悟った後自殺してしまう僧もいたそうですから。つまり、積極的に生きたいという気持ちは最初から持っていない、というのがタテマエです。

では、なぜいわゆる悟りを得た「聖者」が、潔くその場で死を選ばないか、ということですが・・・。

まず第一点は、「悟り」にも段階があって、初めて見性した、というだけの聖者は、四諦を正しく見極めた、という点では悟ったといえるのですが、それだけでこれまでに積み重ねてきた自らの業がキャンセルされるわけではなく、もう少し修行して自らを浄化しなければならないのです。生きてないと修行はできないので、この段階ではまだ死ねませんよね(笑)

最終的に全ての業が浄化されて、後世を引き起こすような力を持った業がなくなると、ようやく解脱することがかなうようになります。「四双八輩」といって、聖者に八つの段階を数えるのはこのあたりのことを反映しています。


(つづく・・・)

| コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月26日 (木)

~閑話休題(3)

ここで面白いことが起こります。梵天という「神」が、お釈迦様にすがって、衆生の中には理解するものもあるでしょうから、そんな事言わないで教えを説いてください!そうしないと世界が敗壊してしまいます・・・と頼み込んだのです。
お釈迦様も最初は断っていたのですが、散々頼まれるので、ついに根負けし、自殺を断念して教えを説くことにしたのです。

このように、実は「慈悲」というものは、もともとお釈迦様の内心の発露ではなくて(!)、外来的なものなんですね。しかも頼み込む役をおおせつかった梵天というのは、実はバラモン教の主神の一人で宇宙の根源的な力を象徴するブラフマーのことですから、なおさら興味深い。
余談ですが、大乗仏教というのはこの「慈悲」に軸足を乗せた宗教だという点で、ある意味足元の危うさを孕んだ仏教といえるかもしれませんね。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月24日 (火)

~閑話休題(2)

ところで、自分が解脱できるかどうか、ということは、行者自身、自分の業とその行く末を観察することで、生きていながらでも知ることはできます。したがって、教えの言葉としてのみ知っている、ということではありません。

さて、これだとお釈迦様自身も「悟り」のあとに業の勢いを滅するために修行しなくてはならなかったのではないか?という疑問がわいてきますが、その点についてはお釈迦様の前世についての解釈が絡んで各乗各派で見方も異なるようですし、私は良くわかりません・・・。(詳しい方、教えてください!)

ただ、伝承として伝えられるのは、お釈迦様ご自身は、「自分の悟った内容は衆生の生の本質に逆行するもので、到底理解されないから説いてもムダである。よって、自分の解脱を果たすために、その場で死んでしまおう」と考えた、というものです。

(まだ続く・・・)

| コメント (0) | トラックバック (0)

2005年5月23日 (月)

~閑話休題(1)

今回は私の本業の「インド仏教研究」がらみでちょっと。
以下は某SNSサイトの仏教コミュ二ティの掲示板で最近「悟り後の生」が話題になり、そこに書き込んでみたものの抜粋なのですが、なかなか面白い問題なのでこちらにも転載して、今後の経過を追ってみたいと思います。(時計のネタが尽きた!?、というウワサもあります(笑))
多少、断章取義になっている感もありますので、ご興味あるかたは原掲示板の方をご覧になってみてください。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
kugyousuruインド人の間に伝わるの基本通念として、「生物は全て己の行いとその業によって輪廻し続ける。そして輪廻すなわち生とは苦である」というものがあります。従って、「解脱」muktiというのは、そこから「解」放され「脱」出するということで、これは仏教に限らずインド人にとって、現世での名利などよりも上に位置づけられる宗教的価値であり、目指すトコロなわけです。(※厳密には仏教では輪廻からの、ではなくて煩悩からの解脱を言います。結果的には同じことですが。。。)

一方で「悟り」bodhiというのは、実は一義的なものではないのです。つまり「ホトケならば悟っている」は正しいのですが、「悟ればホトケ」というのは必ずしも正しくはないのです。

とは言え、一般に言う「悟り」は、お釈迦様が発見した、衆生の生に関する真理たる知見を指していて、その場合でも諸説あるのですが、もっともオーソドックスな伝統説によればその内容は「四諦」であり、「(十二)縁起」ということになっています。
「四諦」と「縁起」の内容については、書くと長くなるので省略しますが、要点は「衆生の生の実態とは苦であり、それには原因があるので、それをなくせば解脱に至る。よって出家しなさい」というものです。

従ってこの意味での「悟り」は、この四諦の内容をはっきりと見極めて真理として受け容れることであり、「解脱」はその真理の通りに実践して苦の原因を滅しつくしたときにかなう、修行の成果ということになります。

つづく・・・

| コメント (0) | トラックバック (0)

« 2005年3月 | トップページ | 2005年6月 »